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横浜地方裁判所 昭和52年(ワ)1731号 判決 1985年3月26日

原告

佐久間由記

右法定代理人親権者父

佐久間良助

同母

佐久間富子

右訴訟代理人

鈴木繁次

寒河江晃

杉山一

福田盛行

被告

森俊一

右訴訟代理人

畑山実

島林樹

日野和昌

安田昌資

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対して、五〇〇〇万円及びこれに対する昭和五二年一〇月二三日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  債務の不履行

(一) 診療契約

昭和五〇年一一月三日、原告(昭和四九年二月一八日生まれ)の親権者である佐久間富子及び佐久間良助は、原告を代理して、相模原市で千代田病院を経営する医師である被告との間に、被告が、当時の医学水準に照らし善良なる管理者の注意義務をもつて、原告を診察し、その病名を適確に判断して、それに対する適切な治療を行う旨の診療契約を締結した。

(二) 不完全履行

(1) 原告は、発熱・嘔吐の症状が出たため、昭和五〇年一〇月二〇日から数回にわたつて相模原中央診療所において治療を受け、自家中毒症と診断されたが、その間も何度か発熱・嘔吐を繰返した。同年一一月三日の夜に至つて、原告は、容態が急変し、同日午後一一時二五分ころ救急車で被告経営の千代田病院に搬送され、被告の治療を受けるに至つた。

(2) 原告は、千代田病院に到着した当時、意識不明、項部強直、痙攣及び発熱等の症状を明瞭に呈しており、また、原告の母佐久間富子が原告に同行していたから、被告は、同女に質問すれば、原告が千代田病院に来る前に嘔吐の症状を呈していた事実を容易に知り得た。

(3) 右の状況下においては、原告の疾患は髄膜炎(ことに化膿性髄膜炎)または髄膜脳炎であるとの診断が可能であり、少なくともその可能性を排除することはできなかつた。そして、原告の疾患名を特定し、それがウィルスによるものか細菌によるものかを知るためには、腰椎穿刺によつて髄液を採取する方法(以下単に「腰椎穿刺」という。)が有効であり不可欠である。千代田病院入院当初の原告の重篤な症状のもとでは腰椎穿刺が原告に苦痛や圧迫を加え原告の状態に悪い影響を与えることが懸念されたとしても、その後、原告の症状がやや良好になつた時期はあつたのであるから、その際に腰椎穿刺を行うことは可能であつたはずである。

ところが、被告は、腰椎穿刺を行わないまま漫然と髄膜炎及び髄膜炎の可能性を排除し、「急性脳症(自家中毒)、二次性脳炎、ショック」との診断をした。

仮に原告の疾患が被告の診断どおりに二次性脳炎または急性脳症であつたとしても、両者はそれぞれに治療法が異なるのであるから、被告は、腰椎穿刺をする等して、原告の疾患が両者のいずれであるかを特定し、その上でその疾患に適切な治療をすべきであつた。

(4) ところが、被告は、原告の疾患の原因としてウィルスを予想したにとどまり、治療も対症療法の域を出ることなしに終結してしまい、原告の疾患の原因たる細菌を発見してこれに対しもつとも感受性を有する抗生物質を十分量投与することができなかつた。

また、原告の疾患が二次性脳炎または急性脳症であつたとすれば、被告は、原告に対し、脳炎と脳症の別に応じた適切な治療を施さなかつた。

さらに、被告は、千代田病院において原告に適切な治療を施すことが不可能な場合は、原告を小児科専門医等へ転医させることを考慮すべきであるのに、その時期を失し、昭和五〇年一一月一四日、原告が町田市民病院へ転院したときにはすでに手おくれの状態であつた。

2  不法行為

被告には、昭和五〇年一一月三日に原告が千代田病院に入院してから、同月一四日に原告が転院するまでの間、原告に治療を加えるに当り、請求の原因1の(二)(不完全履行)の事実同旨の過失があつた。

3  原告の損害

原告には、被告の前記債務不履行または不法行為によつて、両眼失明並びに四肢伸展位拘縮、歩行、起立、座位及び握持の不能等の脳性小児マヒの後遺障害が残り、そのため、原告は次の損害を受けた。

(一) 逸失利益 一六二七万七〇四五円

(二) 付添看護費用 二〇九八万一二九五円

(三) 慰謝料 一五〇〇万円

(四) 弁護士費用 四八〇万円

4  よつて、原告は、被告に対して、債務不履行または不法行為に基づいて、総損害額である五七〇五万八三四〇円のうち五〇〇〇万円及びこれに対する訴状送達による請求の日の翌日または不法行為の日の後の日である昭和五二年一〇月二三日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因事実に対する認否

1  請求の原因1(一)(診療契約)の事実のうち、被告が相模原市で千代田病院を経営する医師であることは認めるが、その余は否認する。

2  請求の原因1の(二)(不完全履行)について

(一) 右の(1)の事実のうち、原告が、昭和五〇年一一月三日午後一一時二五分ころ救急車で千代田病院に来院し、同月一四日に退院するまでの間、被告の治療を受けたことは認めるが、その余は知らない。

来院当時の原告の症状から推認するに、昭和五〇年一一月三日の夜に容態が急変したとの原告の主張は当らない。従前から重篤な症状が続いていたものと推認される。また、原告の母は、原告が千代田病院に来る前にかかつていた医者から食中毒との診断を受けたと語つていた。

(二) 同(2)の事実のうち、原告が千代田病院に来院したとき、意識不明、強直性痙攣、発熱の状態にあつたことは認めるが、項部強直はなかつた。

原告は、千代田病院に来院した当時、呼吸困難・チアノーゼに陥つており、血圧も最高が六〇ミリメートル水銀柱、最低は通常の血圧測定器で計測可能な四〇ミリメートル水銀柱を下回つていたため計測できなかつた。要するに、原告は、千代田病院に来院した当時、重症のショック状態であり、三時間も放置すれば死亡を免れなかつた。

(三) 同(3)の事実のうち、被告が原告に腰椎穿刺をせず、かつ、その病名を「急性脳症(自家中毒)、二次性脳炎、ショック」と診断したことは認める。

(1) 原告の症状から髄膜炎(ことに化膿性髄膜炎)あるいは髄膜脳炎と診断し得たことは否認する。

(2) 本訴の当初において、原告は、原告の疾患は髄膜炎であつたのに、被告はこれを急性脳症または二次性脳炎であると誤診したと主張し、被告は右の診断は正しかつたと主張して、審理が進められた。ところが、原告は、このような経過を無視して、千代田病院入院時の原告の疾患は髄膜脳炎または脳炎であつたと主張するに至つた。このことは被告の利益を害し訴訟手続を著しく遅延させるものであるから、右の新主張は、故意または重大な過失により時機に遅れた攻撃方法として、却下されるべきものである。

また、原告は、従前、被告が腰椎穿刺をしなかつたこと自体を独立の債務不履行ないし過失として主張しておらず、これに沿つて審理が進められてきた。ところが、原告は、このような経過を無視して、被告が腰椎穿刺をしなかつたこと自体を独立の債務不履行ないし過失として主張するに至つた。このことは被告の利益を害し訴訟手続を著しく遅延させるものであるから、右の新主張は、故意または重大な過失により時機に遅れた攻撃方法として、却下されるべきものである。

(3) 腰椎穿刺が化膿性髄膜炎の診断に有効であることは認めるが、急性脳症、脳炎、髄膜脳炎あるいはウィルス性髄膜炎ないし無菌性髄膜炎の診断に有効であるとはいえない。さらに、原告は、千代田病院に入院している間一日たりとも、安全に腰椎穿刺を行い得る状態となつたことはない。

(四) 以下に、被告の診断の理由を述べる。

(1) 一般に、脳実質やこれを覆う被膜である髄膜の炎症を起す原因としては、ウィルスと細菌がある。ウィルスが脳実質を襲う場合がウィルス性脳炎、ウィルスが髄膜を襲う場合がウィルス性髄膜炎(無菌性髄膜炎と呼ばれるものも、大半がウィルスによるものであると言われる。)であり、細菌が髄膜を襲う場合が化膿性髄膜炎である。

ところで、細菌が脳実質を襲う場合は脳腫瘍と呼ばれ、通常、患部が局所的であり、その症状もウィルス性脳炎、化膿性髄膜炎及びウィルス性髄膜炎ないし無菌性髄膜炎とはちがう。従つて、右各疾患と類似の細菌性脳炎なるものは存在せず、脳炎はすべてウィルス性である。

また、脳炎と髄膜炎が併発した場合を髄膜脳炎というが、ウィルスが脳実質を襲い、同時にその被膜である髄膜を細菌が襲うという事態は通常あり得ないから、脳炎と併発した髄膜炎はウィルス性であると考えられる。従つて、髄膜脳炎はウィルス性である。

さらに、脳炎と臨床的に酷似するが、病理的に原因を発見し得ないものを脳症という。日本で古くから挙げられている疾患である重症自家中毒症は、急性脳症の一種として分類されている。

(2) 脳炎は、意識中枢・呼吸中枢・運動中枢等を含む脳実質の炎症であるため、きわめて激しい症状(意識不明・呼吸困難・痙攣等)をしばしば同時に示す。脳症においても症状は同様である。

これに対して、化膿性髄膜炎は、脳実質を覆う被膜である髄膜の炎症にすぎないため、細菌が脳表面の血管に沿つて脳皮質にも浅く浸潤して行くとはいつても、その症状は脳炎及び脳症の症状にくらべて相当軽く、意識についていえば、意識が混濁することはあつても、意識不明に陥ることはない。

(3) 原告は、千代田病院に来院した時、意識不明で、呼吸・循環代謝に著しい障害を示しており、髄膜炎としては考えられない重症ショック状態にあつたから、被告は、右状態は病変が脳実質深部まで及んでいるためであると見て、原告の疾患を「脳炎(他疾患に感染後二次的に発症したものと考えて「二次性」を冠した。)」と診断したが、入院後何日目かに重症自家中毒に典型的なコーヒー残渣様吐物があつたので、「急性脳症(自家中毒)」を主位的な診断名として、「二次性脳炎」を併記し、特徴的症状として「ショック」を加えた。

(4) 原告は診断のために腰椎穿刺の必要があつたと主張するが、腰椎穿刺をしないでも右のとおりの診断ができる以上、そのうえに重ねて腰椎穿刺をする必要はなく、また、脳症、脳炎、髄膜脳炎、ウィルス性髄膜炎ないし無菌性髄膜炎の診断のためには、腰椎穿刺は特に有効であるとはいえない。

仮に、原告が化膿性髄膜炎に罹患していたと認める余地があつたとしても、それは極くわずかであるのに対し、原告は、千代田病院に来院した当時、死に瀕した重症ショック状態にあつたため、患者を海老状に前屈させる必要のある腰椎穿刺のできる状態ではなく、また、いつたん重症ショック状態を脱却した後であつても、右のように原告を前屈させれば再び重症ショック状態に陥らせる危険があつたことを考慮すれば、腰椎穿刺の必要性は到底認められない。

(5) 一方、髄膜脳炎は前記のとおり髄膜炎と脳炎が併発したものであるところ、右のとおり、脳炎の症状はきわめて激しいものであるのに対し、髄膜炎の症状はそれにくらべると穏やかであつて、ことにウィルス性髄膜炎ないし無菌性髄膜炎の症状は化膿性髄膜炎よりはるかに穏やかであるため、髄膜脳炎の症状としては脳炎の症状が前面にあらわれる。

さらに、現在の医学水準では、脳炎(ウィルス性のものしか見られないことは前述した。)及びウィルス性髄膜炎ないし無菌性髄膜炎のいずれに対しても、治療は対症的に行うほかなく、かつ、脳実質の炎症である脳炎に対する治療を行えば、それは当然に脳実質を覆う被膜である髄膜にも及び、結局、髄膜の炎症である髄膜炎に対する治療にもなる。

従つて、仮に原告の疾患が髄膜炎であつたにせよ、被告が「急性脳症(自家中毒)、二次性脳炎、ショック」という診断に「ウィルス性髄膜炎ないし無菌性髄膜炎」を加えてなくても不都合はない。

(五) 請求の原因1の(二)(不完全履行)の(4)の事実のうち、被告が原告の疾患の原因として細菌を考えなかつたこと、従つて特定の細菌に感受性を有する抗生物質の大量投与という方法をとらなかつたこと及び脳炎と脳症とを区別した治療をしなかつたことは認める。

しかし、被告が化膿性髄膜炎の治療をしなかつた理由は右の(3)及び(4)に述べたとおりである。

また、現在の医学水準では、脳炎及び脳症のいずれに対しても、痙攣を止める薬品を投与するとか、呼吸困難に対して酸素吸入をする等の対症療法以外の治療方法はないため、結局、前述のとおり脳炎及び脳症の症状が同様である以上、両者の治療方法も同様であることになる。

3  請求の原因2(不法行為)について

被告に過失があつたとの主張は争う。右2において述べたとおり、被告には原告の診断・治療に際し何の過失もなかつた。

4  請求の原因3(原告の損害)の事実は、すべて知らない。

理由

一診療契約について

1  請求の原因1(一)(診療契約)の事実のうち、被告が相模原市で千代田病院を経営する医師である点は、当事者間に争いがない。

2  そこで、<証拠>を総合すると、次の事実が認められ<る。>

(一)  原告は、昭和五〇年一一月三日(当時原告の年令は約一年八箇月)の午後一一時二五分ごろ、母である佐久間富子につきそわれ、救急車で千代田病院に運ばれた。

(二)  被告は、直ちに原告の治療を開始し、原告が千代田病院を退去した日である昭和五〇年一一月一四日の前日である同月一三日まで原告を同病院に留めて治療を続けた。(原告は、同月一四日の早朝、被告の診療開始時刻前に千代田病院を退去したため、同日は被告による原告の治療は行われていない。)

(三)  佐久間富子は、右期間の大部分の間、原告につきそつており、原告の父である佐久間良助も、右同月五日午後に来院し、富子と交替して原告につきそつた。

(四)  また、良助は、右同月一四日の朝、右入院期間中の治療費等の本人負担分を千代田病院の会計係に対して支払つた。

(五)  その後、千代田病院は、右治療費等につき、相模原市に対して、国民健康保険(加入者は良助)の診療報酬を請求している。

3  右1及び2の事実を総合すると、請求の原因1(一)(診療契約)の事実を認めることができる。(遅くとも一一月五日には、良助が右契約を追認したといえる。)

二不完全履行について

1  千代田病院における原告の症状

(一)  <証拠>を総合すると、次の事実を認めることができ、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

(1) 原告は、昭和五〇年一〇月一八日ごろから風邪気味であつたが、同月一九日に発熱・嘔吐の症状が出たため、自宅近くの相模原中央診療所に通院して、診察・治療を受けた。

(2) 一〇月二〇日、二一日ごろの原告の状態は、腹痛、頻回の嘔吐、顔色が悪く、口唇に少しチアノーゼがある等であつた。

(3) 一〇月二四日ころから、一一月三日の夕方ころまでは、腹痛、嘔吐、チアノーゼ等の症状はあらわれなかつたが、発熱は続き、しかも、相当な高熱を発する時が多かつた。

(4) 一一月三日午後八時ごろ、原告は高熱を発し、同日午後九時ごろにはぐつたりとして眼がうつろになる状態となつた。そこで、母親富子は、同日午後一〇時三〇分ごろ相模原中央診療所に電話して指示を求め、その指示に従つて、救急車を呼び、入院設備のある病院を探して、原告を千代田病院に選んだ。

(5) 千代田病院に到着した時、原告は、意識不明で、眼は開いているが眼球挙上し、富子が呼んでも反応しない状態で、チアノーゼのため口唇は真青となり、呼吸困難、強直性全身性痙攣の状態で、体温は三八度九分の高熱であり、血圧は極めて低く、最高血圧が測定中に七〇ミリメートル水銀柱から六〇ミリメートル水銀柱に下り、最低血圧は、通常の水銀血圧計の最低目盛である四〇ミリメートル水銀柱をなお下回つていたため、測定できない状態であつた。

(6) 一一月四日も、原告の意識不明、呼吸困難の状態は続いたが、強直性痙攣とチアノーゼはあらわれなかつた。また、この日に検尿をしたところ、ケトン体三プラスの反応が出た。

(7) 一一月五日、原告はブルジンスキー症状及び項部強直のいずれも示さず、また大泉門も正常であつた。しかし、循環不全で最高血圧が六〇ミリメートル水銀柱に低下し、午後九時には、原告の左半顔及び左上肢に間代性痙攣があらわれ、チアノーゼもあらわれた。

(8) 間代性痙攣は、遅くとも翌六日早朝にはやんだが、六日午前四時半にはコーヒー残渣様の物を嘔吐した。

(9) 一一月七日に、被告は原告の脳波検査を行つたが、全域徐波及び乳児徐波が認められた。

(10) 一一月八日、被告は、原告の食事を流動食から五分粥に切替えた。

(11) 一一月九日、原告は、眼を開いており、口に物を入れてやると食べるが、視点が定まらない状態であつた。

(12) 一一月一三日、富子は、被告に対し、原告を然るべき小児科の専門医に見せたいと申し入れ、翌一四日午前九時以前に、原告は、同日の診察を受けないまま、千代田病院を退院した。

(13) 右の期間中、被告は、原告に対して、マトロマイシン、セポラン、セファメジン、リンコシンなどの抗生物質を投与した。

2  被告の診断

(一)  被告が原告の疾患を「急性脳症(自家中毒)、二次性脳炎、ショック」と診断したこと及び原告に腰椎穿刺をしなかつたことは、当事者間に争いがない。

(二)  被告本人尋問の結果によれば、被告が右の診断をした根拠は次のとおりであつたことが認められる。

(1) 千代田病院に入院している期間中、原告には、大泉門の膨隆及び項部強直の各症状がなく、意識・呼吸・循環・運動の各中枢が冒されていると認めるべき症状(意識不明、呼吸困難、チアノーゼ、痙攣等)があることから、原告が、すでに脳幹部を、それも局部的でなく全般的な侵襲を受けていると認められたので、被告は原告の疾患を二次性脳炎と診断した。

(2) ところが、一一月六日に原告がコーヒー残渣様の物を嘔吐したことから、被告は原告の疾患は重症自家中毒であると診断した。

(3) さらに、被告は、原因不明の重篤な脳疾患の総称が脳症であり重症自家中毒もこれに含まれるという理解のもとに、原告の疾患を急性脳症とする診断をした。

(4) また、原告は、意識不明、呼吸困難、チアノーゼ、血圧低下などの重篤な症状を示しているところから、被告は原告が重症ショックの状態にあると診断した。

(5) そして、被告は、右の診断のもとにおいて、原告に対して腰椎穿刺を行う必要はなく、かえつて危険であると判断した。

3  そこで、被告が右の診断をした当時、医学界では一般に「脳炎」、「重症自家中毒」、「急性脳症」、「腰椎穿刺」等について、どのように考えられていたかを、以下見ることとする。

(一)  <証拠>を総合すれば、「脳炎」に関しては、一般に次のように説明されていたことが認められる。

(1) 脳炎は、ウィルスが直接に脳皮質を冒す一次性脳炎と、発疹性疾患などに続発する二次性脳炎(発疹性疾患感染後または同予防接種後の脳炎など)とに分類することができる。

(2) 脳炎は、発熱、頭痛、嘔吐、意識障害、痙攣、麻痺などを主要な特徴とし、脳の器質的障害を示唆する所見が認められる。

(3) 二次性脳炎は、原因疾患のウィルス感染の後、一定期間のうちに神経組織内に起こる抗体反応の結果により発生するものと考えられ、脱髄性の変化を示し、主に脳の白質を冒す。しかし、脳の灰白質も冒されるので、臨床所見は一次性脳炎と異ならない。

(4) ウィルス性疾患からの回復期に脳炎が起つたという病歴は、通常は感染後脳炎という診断に帰着し、原則としてそのような診断は正しい。

(二)  <証拠>を総合すると、「重症自家中毒」に関しては、一般に次のように説明されていたことが認められる。

(1) 伊藤祐彦の定義によると、「自家中毒症」とは、疫痢または劇症小児赤痢のような中毒症状で、熱または下痢はなく、ただ中毒症状だけの場合を指す。自家中毒では、意識障害、痙攣も起こることがあり、コーヒー残渣様の物を嘔吐し、尿中のアセトン及びインジカンが陽性となる。

(2) これに対して、高津忠夫は、自家中毒症という病名の使用を避け、周期性嘔吐症あるいはアセトン血性嘔吐症、発作性アセトン血症という名称を使用したいと述べている。

(三)  <証拠>を総合すれば、「重症自家中毒と急性脳症との関係」については、一般に次のように説明されていたことが認められる。

(1) 幼若小児特に乳幼児が急激な発熱とともに嗜眠、昏睡、痙攣を起し、臨床的に急性脳症と診断されながら、炎症の病理学的特徴である増殖、浸潤、変性の所見がないか、あつても軽度にとどまり、それに代つて脳浮腫または脳腫脹といつた状態が主体をなしているものを「急性脳症」という。脳炎と急性脳症とは類縁疾患である。

(2) 「急性脳症」の原因は、生体ではなく、中毒性・体質反応性諸因子が関与しているものと想定されている。

(3) 「重症自家中毒症」は、「特定の原因ないし誘因が推定されない急性脳症」(第一群)に分類されており、「特定の原因ないし誘因が推定される急性脳症」(第二群)、「基礎疾患に伴う急性脳症反応」(第三群)と区別されている。

(4) 急性脳症の症状は、軽い上気道感染症のほか腹痛・嘔吐・下痢・頭痛などを前駆とし、極期においては発熱・呼吸困難・末梢循環不全・ショックなどの症状があらわれ、意識障害は必発し、痙攣は必発ではないが極めて高頻度に見られる。脳波は広範性多形性徐波化を示す。

(四)  <証拠>によれば、「ショック」については、一般に次のように説明されていたことが認められる。

(1) ショックとは、急性循環障害を中心とした総括的全身症状と理解されており、種々の原因で心臓の拍出量が減少することにより末梢血管の血流が減少し血圧が低下するものである。(循環の不全)

(2) ショック状態においては、代謝が著しく低下する。

(3) ショック状態の症状としては、呼吸障害、顔面蒼白、チアノーゼ、意識不明、尿中へのケトン体の排出などが見られる。

(五)  <証拠>を総合すると、腰椎穿刺については一般に次のように考えられていたことが認められる。

腰椎穿刺は、治療を目的としても行われるが、診断を目的として行われることが多い。腰椎穿刺は、補助的検査方法の一種であるが、これは一般的に行うべきものではなく、ある神経疾患の疑わしいが、患者の既往症や現病症についての他の検査結果からこれを確証することができないとき、逆に、神経系の重大な器質的疾患を除外するなど、具体的目的をもつて行うべきものである。頭蓋内圧亢進を伴う疾患がある場合、穿刺部位に炎症・感染症などがある場合及び腰椎穿刺を行つても診断・治療に意義を有しない場合には、腰椎穿刺を行つてはならない。また、昏睡患者にこれを行うときは、脳ヘルニアの発生及び悪化に注意を要し、併せて脳幹機能につき頻回のチェックをすべきである。

4  当裁判所の判断

(一)  時機に遅れた攻撃方法の却下を求める被告の申立について

(1) 被告は、本訴の当初において、原告の疾患は髄膜炎であるのに、被告はこれを急性脳症または二次性脳炎と誤診したと主張し、被告は右の診断は正しかつたと主張して、審理が進められたところ、原告は、このような経過を無視して、千代田病院入院当時の原告の疾患は髄膜脳炎または脳炎であると主張するに至つた。被告は、右の新主張は、被告の利益を害し、訴訟手続を著しく遅延させるものであるから、故意または重大な過失により時機に遅れた攻撃方法として、却下されるべきものであると申立てる。よつて、この点につき判断する。

原告は、訴状において、原告の疾患は髄膜炎であると主張していたが、右主張は、昭和五五年五月一三日付準備書面(第一〇回口頭弁論期日において陳述された。)及び同年六月九日付準備書面(第一二回口頭弁論期日において陳述された。)において、原告の疾患は髄膜脳炎または脳炎であるとの主張に変更されており、右事実は記録上明らかである。

しかし、原告は、その昭和五三年四月七日付準備書面(第二回口頭弁論期日において陳述された。)及び同年一〇月一七日付準備書面(第四回口頭弁論期日において陳述された。)において、すでに髄膜脳炎について言及しており、これによつて、原告らの主張が髄膜炎のみに限定されるものでないことが示唆されていた。また、右各書面によれば、原告の主張は、誤診、腰椎穿刺を行えば異なる診断に到達し得た可能性及び診断が異なれば別の治療方法を採り得た可能性があつたことをすべて含んでいると見ることができる。〔さらに、細菌が、髄膜を冒し、なお脳実質をも襲う場合があることは、医学上広く行き渡つた知見である(このことは、<証拠>により認められる。)。〕また、本件のように、患部の剖検が不可能な事案においては、証拠調はやや広い範囲に及ばざるを得ない。これらの事情を考慮すれば、原告による右の程度の主張の変動は、特に被告の訴訟上の利益を害するものとは認められないし、訴訟手続を著しく遅延させるものでもない。

(2) 被告は、また、原告が腰椎穿刺不施行自体を独立の債務不履行または過失であると主張することは、時機に遅れた攻撃方法であるから、同主張を却下すべきであると申立てるので、この点につき判断する。

記録によれば、原告が、積極的に、腰椎穿刺不施行を被告の債務不履行または過失として挙げないと述べたことは一度もなく(原告の昭和五三年一〇月一七日付準備書面を右のように解することはできない。)、むしろ、原告は、当初から、腰椎穿刺不施行を主張していたものであるから、被告の右申立は理由がない。

(二)  被告の診断の妥当性について

(1) 前記1ないし3の各事実によれば(なかんづく原告の千代田病院における症状と関連諸疾患が示すとされている臨床症状とを比較すれば)、「急性脳症(自家中毒)、二次性脳炎、ショック」という被告の診断は、必ずしも誤りと言えないことは明らかである。(証人山家忠幸は「急性脳症(自家中毒)」と「二次性脳炎」を併記する被告のカルテの記載はおかしいと主張するけれども、両者が類縁疾患であることを考えれば、診断の段階でそのように判断しても、必ずしも誤りであるとは言えない。)

(2) また、原告は被告が脳症と脳炎を区別すべきであつたと主張すれけれども、右両者は、前述のとおり、症状が酷似しかつ治療方法も同様(前述のとおり対症療法)であるため、被告としては、千代田病院入院当時瀕死の状態にあつた原告の生命をまず救うために、右両者を区別しないまま、原告の症状に対応する対症療法に専念したことも、やむを得ないところである。

5  原告の疾患は髄膜炎または髄膜脳炎であるという原告の主張について

(一)  ウィルス性髄膜炎ないし無菌性髄膜炎の可能性について

髄膜炎のうち、ウィルス性髄膜炎ないし無菌性髄膜炎は、一般に症状が軽い(<証拠>)ものであるところから、原告が千代田病院入院当時に示した意識不明(<証拠>によれば、無菌性髄膜炎には意識障害はないとされている。)や痙攣の症状に照らせば、原告の疾患がウィルス性髄膜炎ないし無菌性髄膜炎であつた可能性はないと見ることができる。

(二)  髄膜脳炎の可能性について

髄膜脳炎は、前記のとおり、髄膜炎と脳炎が併発したものであり、原因はウィルスであるのが通常であつて、主要な症状は脳炎のそれであり、治療方法も脳炎の治療方法をもつて足りるところから、被告が「二次性脳炎」という診断を下している以上、仮に原告の疾患が髄膜脳炎であつたとしても、被告の診断が誤りであつたとは言えない。

(三)  化膿性髄膜炎の可能性について

(1) <証拠>によれば、化膿性髄膜炎であるとの診断の根拠としては、高熱、症状の重症化、頭蓋内圧亢進症状(嘔吐、頭痛、痙攣、意識混濁、乳児の大泉門緊張と膨隆)及び髄膜刺激症状(項部強直、ケルニヒ症状)が挙げられる。そして、生後一年未満の乳児においては、右各症状の発現頻度は、発熱九九パーセント、嘔吐八五パーセント、大泉門膨隆八四パーセント、ブルジンスキー症状六二パーセント、項部強直四九パーセント、痙攣三六パーセントであるとされていることが認められるところ、原告には、発熱、嘔吐及び痙攣は認められたものの、化膿性髄膜炎に必発する項部強直及び大泉門膨隆がなく、さらにブルジンスキー症状もなかつたことはすでに認定したとおりである。従つて、脳波の全域徐波化やコーヒー残渣様物の嘔吐があつたことと相まつて、被告が、原告の疾患が化膿性髄膜炎である可能性を考慮しなかつたとしても、その判断に誤りがあつたとは言いがたい。

(2) 原告は、被告が不完全に抗生物質を使用したため、町田市民病院の医師が原告に対し腰椎穿刺をしたうえ髄液検査をした際に細菌を発見できなかつたものであり、もし被告による不完全な抗生物質使用がなければ、右髄液検査により、原告の疾患が化膿性髄膜炎であつたことを証明できたはずであると主張する。

たしかに、不完全な抗生物質の治療で修飾されると、化膿性髄膜炎は遷延性の経過をたどり、原因たる細菌を検出しにくくなることがあるといわれているが、この場合、化膿性髄膜炎が無菌性髄膜炎のような経過を示すとすれば、原告主張の極めて重篤な後遺障害が残つたこと(<証拠>によれば、原告にはその主張どおりの後遺障害が残つたことが認められる。)は理解しがたい。

(3) さらに、被告の抗生物質使用がいつそう不完全であり、細菌の活動をほとんど抑制し得なかつたと想定することも不可能ではないが、<証拠>によれば、原告は、町田市民病院に転医した昭和五〇年一一月一四日当日、同月二七日、翌一二月四日、同月一九日の四度にわたり腰椎穿刺を受け、髄液を採取して、細菌培養による細菌検査を行つたが、細菌は一度も検出されなかつたことが認められ<る。>一方、<証拠>によれば、化膿性髄膜炎の場合、採取した髄液の細菌培養をすると七〇パーセントないし九〇パーセント陽性を示すと言われていることを認めることができ<る。>右の事実を総合すると、前記の想定は無理であると言わざるを得ない。

(四)  腰椎穿刺の必要性について

原告は被告が腰椎穿刺を施行すべきであつたと主張し、証人山家忠幸もこれを肯定する証言をしている。

しかし、前述のとおり、ウィルス性髄膜炎ないし無菌性髄膜炎の可能性は腰椎穿刺によらないでも否定され、髄膜脳炎や脳症を強いて脳炎と区別する必要はないことが認められる。さらに、右(三)において述べたとおり原告の疾患が化膿性髄膜炎であつたことを認めるのは極めて困難である以上、腰椎穿刺によつて原告の疾患の診断に役立つ情報を得る見込はほとんどなかつたと言つてよい。

そのうえ、<証拠>によれば、腰椎穿刺は、患者を側臥位とし、両手で膝をかかえ込むようにさせ、体を海老のように前屈させて行うものであることが認められるのに対し、原告の症状は、前記のとおり、一一月六日ころには極端な痙攣こそ止んだものの、同月九日になつても視点が定まらないなど、予断を許さない状況にあつたのであるから、腰椎穿刺を行うため原告に無理な姿勢を強いれば、原告を再び重症ショック状態に陥らせる危険があつたことが推認される。

右の事実を総合すれば、原告が千代田病院に入院していた当時、原告に対して腰椎穿刺を行つても、危険が大きい割に、得られる情報の利用価値は極めて小さかつたことが推認される。右の情況のもとで、原告が千代田病院に来院してから一一月一四日の朝に同病院を退去するまでの間、被告が原告に対し腰椎穿刺を行うことのできる適切な機会があり、かつ、被告がこれを看過したことをうかがうに足りる証拠はない。

6  以上の次第であるから、被告には、診断の誤り(診断のための手段選択の誤りも含む。)、診断の不十分、それらから導かれる治療方法の誤りまたはその不十分のいずれの面においても、不完全履行と認めるに足りる事情は発見されない。

三不法行為について

原告が被告の不法行為を基礎づける過失として主張する事実は、右二において不完全履行の事実として主張されたものと同じ内容であるから、不法行為も認められないことは明らかである。

四以上のとおりであるから、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は理由がないので、これを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条の規定を適用して、主文のとおり判決する。

(三井哲夫 曽我大三郎 加藤美枝子)

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